ゆでがえる


 「ゆでがえる」ということばを聞いたことがあるでしょうか? 煮えたぎった鍋にカエルを入れようとしても逃げてしまいますが、水が入った鍋であればカエルはおとなしく入ります。この鍋を火にかけると、カエルは自分がゆでられていることに気づかず、最後には「ゆでがえる」ができあがる、という話です。
 人は無人島で一人暮らしをしない限り、職場、クラブ、研究室、学会などの複数の組織(コミュニティ)に属しています。組織とは、ある目的を達成するための集団ですから、その考え方や価値観は必ず世の中の平均的な考え方や価値観からずれています。ある組織に属した時、具体的には、クラブに入った時、アルバイトを始めた時、研究室に配属された時、入社した時、新しい学会に入会した時、「あれ、ここではこんな考え方をするのか」と疑問を感じたことはありませんか?その疑問は今も感じていますか? そして、その疑問は、現在では疑問ではなくなり、「当たり前」になっていませんか?
 体が冷えている時、お風呂のお湯はとても熱く感じますが、ぬるいお湯に入って次第に温度を上げていくと、飛び上がるほど熱いお湯にも入っていることができます。ある組織に属した時、ちょっと熱いなと感じても、その組織というお湯につかっているうちに感覚が麻痺し、熱さを感じなくなります。最近、企業、大学、官公庁での不祥事が度々報道されていますが、当事者のコメントの中には、常識を欠いているものが少なくありません。これは、当の本人たちは、彼らの組織の中でゆであがっているため、それが当然であり、世の中でも常識であると錯覚してしまっているからなのです。あなたも組織という鍋で、既にゆであがっているかも知れません。



 駅の階段にエスカレーターが1本だけ設置されている時、それは上りですか?それとも下りですか?ほとんどの方は、当然上りだ、と考えるでしょう。しかし、足の不自由な人にとって、階段を下りるのはとても怖いことであり、下りである方がありがたいのです。片足けんけんで階段を上る場面と下りる場面を想像してみて下さい。どちらが怖いですか?あなたは健常者というコミュニティの中でゆであがっていませんか?
 学生や後輩が実験を失敗した時、こんなことも知らないのか、と叱り、嘆いていませんか?専門家集団という異端の組織に属するあなたは、これぐらいのことは誰もが知っていて当然、と錯覚していませんか?普段めったにしない家事や炊事をして失敗し、「こんな事も知らないの?」となじられた経験のある方はその状況を思い出してみると良いでしょう。
 私たちの研究室には多数の毒劇物があります。これらに囲まれて生活していると、毒劇物は危険なものだ、という感覚が麻痺し、いちいち保管庫に戻していたら研究が滞ると考えていませんか?その気になれば誰でも出入りできる研究室に毒劇物が放置されている状況は、市民から見れば、警察の事務机の上に拳銃が放置されているのと同様にとても異常で非常識な状況なのです。
 小中学校の同窓生を思い浮かべてみて下さい。皆さんと同じく生物工学を学び、それを専門としている同級生はいますか?いたとしてもクラスに1人、場合によっては全校でもあなた1人ではないでしょうか?同窓生から見れば、あなたは異端者なのです。そして、大学教員は、その異端者を教える異端者中の異端者なのです。ところが、私たちは普段、研究室、学科・専攻、学会という、異端者たちが集まった組織の中で暮らしているので、自分たちは普通だ、自分たちの常識は世の中でも常識だ、と錯覚している可能性が高いのです。
 皆さんはゆであがってしまう前に火を消すか鍋から出ることができますか?